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オーギュスト パビエとアンリ・ムオー

オーギュスト パビエとアンリ・ムオー

1933年の写真がある。時のシサワン・ウオン王が行列を作って赴いた先は、オーギュスト・パヴィ Augste Pavie(1847~1925)の銅像の除幕式だ。彼の死後8年ほどの事だ。
IMG_0007.jpg

フランスの植民地化の中で最初の支配者となったのがこの男。等身大より大きいかもしれないその銅像は豊かなあごひげをたくわえ右手に杖、左手には本持っている。
IMG_0023.jpgpavie1.jpg


この場所はどこかと聞いて回ると、ルアンパバーン目抜き通りのモンの市場の土手際だという。そこに行って見るとにコンクリートの段があるがその上には今は何もない。政権が代わって嫌われ者のフランスの支配者はどこかに追いやられたのだろう。

ルアンパバーンにはもう一人のフランス人、アンリ・ムオー Henri Molhot(1826-1861)の墓があるのは聞いていたがなかなか行く機会がなかった。先日、バンパノムの布の村に行ったが、その際連れて行ってもらう事が出来た。ムオーと言えばインドシナ半島を探検し、アンコールワットを再発見し西欧世界に知らしめたことで知られている。

その彼が旅の途上、ルアンパバーンで35歳の生涯を閉じてしまうのだが、遺族に残された日記から壮大なアンコールワットが世界に知られるきっかけとなったのだ。

この二人墓と銅像がなんとルアンパバーンで今も一緒に置かれていることが分かった。つまりかのパビエの銅像はムオーの墓の後ろに運ばれていたのだ。布の村、バンパノムからセーの滝に行く途中、道路工事で案内がなければ見落としてしまうような場所にそれはあった。道路から数百メートル、カン川沿いに上り、木々に覆われた山際に有刺鉄線で囲まれて白いムオーの墓とパビエの銅像、横には意味不明の象の銅像までまで置かれている。
muo-haka.jpgzou_20120708154145.jpg


ここにあれば誰もがムオーの銅像だと思うだろう。35歳で他界したムオーにしては年寄り過ぎる・・そんなところから碑銘をよく見ると写真で知っていたパビエ像ではないか。なにか急に懐かしいおじいさんに会ったような感動を覚え仲間たちに説明して記念写真を撮ったのだった。
pavie2.jpg


インドシナ半島の植民地化を狙ってフランスの冒険家や為政者の手先はこの地に入り込んだが、目的はともかく未開の地だったラオスで風土病や食べ物に苦労しながらの旅だっただろうことは想像に難くない。良く調べなければわからないが二人はルアンパバーンで相いまみえたのだろうか。なぜこの像は裸足なのか象の像は?などなぞは深まるばかりだ。

その後のパヴィ・・・
さて、職場のノイにこの写真を見せると「ほり!これは銅像ではないよ、セメンだよ。」と言うではないか。良く見比べると確かにズボンひだなど違う上、決定的なのは台座が銅像では一段、セメンは2段だ。明らかに違っている。すると銅像のパヴィは「今どこに」謎が謎を生む。

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